戸部尚書室で、室主の黄奇人はイライラと書類に判子を押していた。
仕事がやってもやっても終わらないのはいつもの事なのだが、近年稀に見る忙しさだったためここ数日家に帰っていない。そんな中で彼が一番気に掛かっているのは幼子のような妻の事なのだが、彼女からは文の一通も気やしない。それで彼が苛立っているわけでは断じてないのだが。そう、断じて。



「………」

「鳳珠、手が止まってますよ?」



隣りの机で仕事をしていた戸部侍郎、景柚梨は、手が止まっているどころか微動だにしない上官に呆れて声をかけた。連日仕事ばかりで家に仮眠を取る為ですら帰っていない彼の事だから、仮面の下で寝ているのではないかと思ったのだがそうではなかったらしく、柚梨に一瞬だけ視線を向けてからまた黙々と仕事に戻った。彼が妻のことを心配して手が止まっていたなどと、柚梨は知らない。



「少し休憩してお茶にでもしましょうか?」

「必要ない」



やや戸惑ったような声で聞くも、奇人はばっさりといい捨てて顔すら上げない。柚梨は小さく溜息をつくと筆を置いて立ち上がった。休憩もなしで仕事をするなど、それこそ悪鬼巣窟の吏部と同じではないか。柚梨程でなくても上司の気性を良く知り尽くしている高官達は、各自で休憩を取って仕事をしているというのに。
久しぶりに自分でお茶を淹れて、柚梨は筆を握りながら別の書類に目を通している奇人の前に置いた。不機嫌に見上げてくる上司にニコニコと笑顔を向ける。



「……私の言葉が理解できないほど言語能力が衰えたか?」

「先刻から見てたら半分くらいは固まってますよ。それで仕事になりますか」



溜息混じりに叱咤すると、渋々ながらも奇人は筆を置いて立ち上がった。寝てないからなのか多少ふら付きながら長椅子に腰掛ける。置いたは良いが料紙で溢れ返っている机から茶器を取り、柚梨は改めて長椅子にゆったりと腰掛けてうつらうつらしている彼に渡した。奇人が受け取り、しかし口を付けずにただ茶器を見つめるだけだ。自分も茶器を持って、柚梨は彼の正面の長椅子に腰掛けた。一口お茶をすすって、久しぶりの心地に眼を細める。



「たまの休憩もいいものですね」

「………」

「聞いてますか?」

「………」

「鳳珠」

「あ、あぁ」



茶器を見つめたまま動かない奇人に柚梨はいぶかしむ様に眉を寄せた。やっとの事で返事した奇人に溜息をついて、柚梨は小さく首を振る。彼が一体何を考えているのか手に取るように分るから、普段の彼から想像できなくて可笑しくて笑えてしまう。あの黄奇人が妻の事を考えているとは誰も思うまい。



は淋しがってるんじゃないんですかねぇ」

「………」

「昔から人一倍淋しがり屋でしたから」



彼の妻であるの事を幼い頃から知っている柚梨が言うと、奇人は仮面の下で微かに眉を寄せた。確かに自分の妻は他人よりも淋しがりな節がある。だからこそ、これだけの長い間城に詰めている夫に文の一つも届かないのが不思議だ。いつもは一刻も遅くなると泣きそうな顔をしているのに。



「あれだって私の妻だ。気にはしてないだろう」



本当は心配だったり気になったりしているのに、無理に強がってみせる。そう言うと、柚梨は苦笑してお茶を啜った。甘い甘露茶は奇人の好みではないのだが、柚梨は好きだ。奇人が中々お茶に口を付けないので、柚梨はわざと茶化すように言った。



「お茶、おいしいですね。が送ってくれたんですよ」

「何だと!?」



柚梨の言葉が意外すぎて、思わず奇人は声を荒げた。自分の所には文の一通も届かないのに、なぜ彼の元にお茶などが届いているんだ。いくら幼馴染で親しいからといっても間違っているのではないか。其処まで思って、奇人は疑問にとらわれた。いつもは柚梨よりも自分を取ってくれるのに、何故今日に限って柚梨を優先するのか。
奇人の動揺を見て取って、柚梨は苦笑を漏らした。流石に、自分幼馴染は色々心得ている。幼いとばかり思っていたのに、何時の間にこんなに大人になったのだろう。



「貴方に直接送っても開けもしないでしょう?甘露茶は疲れに良いですし」

「……あいつの送ったものだったら開ける位はした」

「おや、いつもはお茶を淹れたのに飲んでくれないと泣いてますよ?」



照れもなく妻の贈り物なら飲むといった上司に、柚梨は妹のように思っていた幼馴染はいい男を捕まえたものだと改めて思った。
何でもないことのように、この間聞いた彼女の言葉を、頬を膨らませて怒った顔と共に思い出す。『鳳珠ったら私の淹れたお茶を飲んでくれないのよ』。そう言っていたのはいつの事だったろうか。もう随分前だった気がするが。すると、奇人はきっと柚梨をにらみつけた。其の顔は正に、人の気も知らないでと叫んでいるようだ。



「あれの淹れる茶を飲んだことがあるか?本来薄茶であるはずの茶が土と同じ色をしているんだぞ?」

「幼い頃に一度だけ淹れてくれましたが……、だってお嬢様ですから」

「俺には茶を出すくせに自分は家人に淹れさせるんだぞ!?」



ありえないと言っている割には奇人の顔からは怒気を感じられず、それどころか優しげな雰囲気さえ漂っている。何だかんだ言って、は愛されているのだなぁとしみじみ思って、柚梨はもう一度薄い茶色をした甘露茶を啜った。透明に近いこのお茶を、如何したらあの娘は土と同じ茶色なんかにしたのだろう。



「そんなこと言ってもは可愛いでしょう?」

「………」



自分も本心も詰め込んで言うと、奇人は黙って柚梨から視線を逸らした。それから初めて甘露茶を口に含んだ。
お茶の甘味を味わいながら、奇人は邸に残した妻を思った。結婚した当初は可愛くて仕方なかった妻は何時の間にか初々しさを無くしてしまったのだろう。肌を重ねるときに見せる羞恥も、しょぼくれて謝る泣きそうな顔も、総てが消え去ってしまったように思える。



「初めは、あぁいう女ではなかった」

「初めからはあぁですよ?」

「初めからあれは我侭で目が離せない子犬のようなお転婆娘だったか?」

「愛情の裏返しです」



やや興奮した奇人の言葉に柚梨はしれっと答えて茶器を置くと、仕事を再開する為に立ち上がった。今日は久しぶりに家に帰れそうだ。











「………」



邸に戻ったは良いが、誰も出迎える事はなかった。結婚した当初は妻が毎日で迎えてくれたのに、最近ではそんな事も無くなった。……そんな事も無いかもしれないが、久しぶりに邸に帰ってきて出迎えが無いのは初めてかもしれない。
不機嫌なまま寝室を覗くと、ろうそくの薄明かりの下でが眠っていた。何をしていたのか机には大量の料紙がばら撒かれている。また料紙か、と昼間料紙と格闘していた鳳珠はげんなりした。



「……

「……ん……」



小さく声をかけて彼女の顔を覗き込むと、は小さく身じろぎしてゆっくりと眼を開けた。鳳珠の顔を間近で認めると、にこりと其れこそ幼子のように微笑む。其の笑みに、鳳珠は確かに安堵した。



「鳳珠ぅ……」

「風邪を引くぞ」



甘えたように彼女が手を伸ばしてくるのをそのままにしておいて、鳳珠はの腕が動いた事で舞い落ちた料紙を拾い上げた。其の間には鳳珠の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。拾った料紙に何とはなしに視線を移して、鳳珠は言葉を失った。



「鳳珠、おかえりなさぁい」

「…………」

「淋しかったよ……」



彼の呆然とした声が聞こえてないようで、は今一はっきりしない声で呟いた。鳳珠は拾った料紙に釘付けになっている。その料紙に認められていたのはごく短い文だったけれど、とても見覚えのあるものだった。いつだったか彼女に送った素っ気無い文を、彼女は大事に取っておいたのだ。一緒になった今ですら、淋しさから其れをとってしまうのだと気づくと、彼女が愛おしくて、苦しい。



「一人にして悪かった」

「……うん」

「…………悪かった」

「うん」



其れしか言えず、ただ謝り続けるとはにこりと笑顔を刷いた。鳳珠にしがみ付く腕に力を込めると、鳳珠の腕がを抱きすくめる。
変わった妻が、心のどこかで疎ましかったのかもしれない。あの頃の彼女を求めていたのかもしれない。でも、人は変わり行くものだから、何時までも隣りにいる女は変わっていく。時の流れに流されるようにただ緩やかに、穏やかに。最高の形で、自分を待っている。



「愛している、

「私も好きよ、鳳珠。大好き」



にこりと微笑み、は鳳珠の耳元で囁いた。そのまま抱きしめていると、程なくして安心したように彼の腕の中で静かな寝息を立て始めた。眠ってしまった妻を寝台に寝かせると、起こさないように鳳珠はそっと彼女の唇に数日振りに口付けを落とした。それから、今日は彼女を抱きしめて其のぬくもりと共に寝ようと思った。




-fin-

ネタが思い浮かばず半月ほど悩みまくった挙句、いつものお姫に。
変わり往くものを愛しいと思いたいですね。
リクエストありがとうございました。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送