静かな室内には呼吸の音と衣擦れの音しかしない。
外は厳しい冬だが、室内は暖かく、その中で黄鳳珠夫妻は無言で違うときを過ごしていた。は机でお茶を飲みながらちくちくと楽しそうに刺繍をしていて、鳳珠は苦しげな息で寝台に横になっていた。



「早く春になれば良いのに」



ぽつりと呟いて、が持っていた刺繍道具を机に置いた。その隣に置いてある茶器に手を伸ばしてお茶を一口啜り、寝台で寝ている鳳珠を振り返る。ことんと茶器を置き鳳珠を見るが、彼からの返事は無い。其れもそのはずで、鳳珠は苦しそうな呼吸を繰り返しているだけで眼を開けもしない。の顔が不機嫌に歪んだ。



「鳳珠ぅ?」



口を尖らせて彼を呼ぶが、彼は身じろぎもしないのではむぅと頬を膨らませて鳳珠の寝顔を覗き込んだ。寝台に手を突くとギシッと寝台がの体重で軋み、の着物がさらりと衣擦れの音をさせた。結っていない髪が垂れ、鳳珠の顔に掛かる。



「……鳳珠?」



小さく名前を呼んで彼の額に浮かぶ汗を拭うと、鳳珠の瞼がぴくりと動いてゆっくりと鳳珠が瞼を上げた。が彼の顔に掛かる髪を掻き揚げると、鳳珠は苦い顔をしての顔を至近距離でみつめる。がきょとんと彼の瞳を見返すと、鳳珠がだるそうに腕を上げて溜息と共にの額を叩いた。



「眼が覚めた?」

「お前は私が病人だと分かっているのか?」



ぺちんといい音がして、は口を尖らせて額を押さえた。文句を言おうと口を開くが鳳珠は辛そうに眼を閉じていて何も言えなくなる。
仕事のし過ぎからか寝込んでしまった鳳珠の看病だといって此処にいることを思い出して、はぱっと顔を輝かせた。鳳珠の額に自分の額を合わせて思案顔をする。



「熱、高いのかしら?」

「……そういう不確かな事をするな」

「でも鳳珠、熱いわ」



額を離して、は不安そうに眉を寄せた。至近距離で水気を帯びた鳳珠の瞳と眼が合って、は彼からぱっと離れる。いくら夫婦といえど、こんなに近くで見つめられたら恥ずかしくなってしまう。急に離れた妻に、鳳珠は微かに眉間に皺を寄せての長い髪を一房掬って引っ張った。



「どうした?」

「……何でもないわ」

「だったらもう少し大人しくしていろ」



彼の手から髪が離れて、はちらりと視線だけを鳳珠に向けた。彼の瞼はもう落ちていて、はそっと彼の顔の前にかがんだ。そっと触れるだけの口付けを熱っぽい額に落として、寝台から離れる。刺繍道具を手にとって、椅子に腰掛けて一度だけ鳳珠の方を振り返った。



「何かあったら言ってね?」

「……あぁ」



眼は閉じられているのに鳳珠からははっきりと返事が返ってきて、は満足そうに一つ頷いた。チクチクと手元を動かしながらやはり気になるのか鳳珠の方にちらちらと視線を動かす。



「鳳珠、喉が渇いたらお茶を淹れるからね?」

「……あぁ」

「お腹減ったら作らせるから言ってね?」

「……あぁ」

「…傍にいるからね?」

「分かったから静かにしていろ」



何度も確認するように言ったに鳳珠は溜息と共に荒々しく吐き出した。只でさえ思い通りにならない体にイライラしているというのにこう横から一々言われたら溜まったものではない。熱の為に少し強く言うと、はしゅんと俯いて悲しそうに口を結んだ。



「……ごめんなさい……」

「傍にいるなとは言っていない」



本当は余り居てほしくはないけれど、今まで忙しくて余り構ってやれなかったから、こういうときくらいは傍に居ても良いかと思う。鳳珠の言葉にはパッと顔を上げてニッコリと微笑んだ。薄目を開けて其れを見て、鳳珠が顔を逸らす。其れに気付かず、はお茶を一口啜った。



「静かにしているわ」



そう言って、またチクチクと手を動かす。其れきり、部屋の中の音は呼吸と衣擦れの音だけになった。









どれくらいそうしていたのか、とろとろとまどろんでいた鳳珠はふと瞼を押し上げた。ゆっくりと視界を巡らせると机のところで無言で詩集に没頭している妻が眼に入る。自分が黙っていろと言った手前言葉を発するのは心苦しいが、無言の空気に妙に不安になって鳳珠は乾ききった口の中を感じながら妻の名を呼んだ。





「え、なぁに?」

「……こっちへ来い」



きょとんと見返してきたの顔から視線を逸らして呟くと、はにぱっと笑って刺繍道具を置いた。ずっと縫っていたのか、刺繍はほぼ完成に近い姿を見せている。それを遠めに見て、鳳珠は微笑を浮かべた。鳳珠の顔を覗き込んだの頬に手を伸ばして、そっと触れる。



「鳳珠?どうしたの?」

「此処にいろ」

「具合良くなった?」



近くの椅子を引き寄せて座りながら、が小さな手を鳳珠の額に当てた。冷たいの手が背筋まで冷やすようで鳳珠は知らず知らずのうちに眉を寄せる。



「冷たいな」

「鳳珠が熱いの。まだきっと熱が高いわ」



の手の上に自身の手を重ねてゆっくりと眼を開けると、なぜだか頬を尖らせたが眼に入った。その眼が泣きそうに見えて鳳珠はの手を握って安心させるように微笑んで見せる。するとははにかんだように笑みを返す。



「泣くな」

「意地悪、泣かないもの」



そう言ったものの、握られた手に力を込めて、はこてんと寝台に頭を預ける。ゆっくりと眼を閉じると鳳珠の大きな手がの頭をそっとかき回した。がくすぐったそうに首を竦めて鳳珠を見やると、薄く笑んでいる鳳珠と眼が合う。
その時、扉の向こうから家人の声が聞こえた。



「お館様、奥方様」

「どうしました?」



やや固いその声にが鳳珠の口元に指を当てて視線を移した。病気で寝ているのだから無理をするなとが笑うので鳳珠は小さく息を吐いて眼を閉じる。出逢った頃は子供だと思っていた妻は何時の間にかこんなに大人になったと保護者のような気分になった。



「景柚梨様がお見えになりました」

「わかりました、別室に……」

「此処で良い」



立ち上がったの手を握って、鳳珠が思いがけず強い声で言った。きょとんとしているの姿など家人には想像もできないから短い了承の返事の後去っていく気配がする。が不思議そうに自分を見ていることに気付いて、鳳珠は誤魔化すように眼を閉じた。



「鳳珠?」

「……お前も此処にいろ」

「淋しいの?」



がパッと顔を輝かせるから、鳳珠は聞こえない振りをした。黙って眼を閉じているが熱い鳳珠の手はの手を握ったままで、は小さく笑みを浮かべた。



「相変わらず仲良しですね」



行き成り苦笑交じりの声を掛けられて、はぱっと顔を扉に映した。鳳珠は面倒なのか眼を開けもしない。扉のところで立っていた景柚梨は、持っていた風呂敷をかざしてに向かって笑いかけた。は満面の笑みを浮かべて鳳珠の手を離す。



「柚梨、いらっしゃい」

「鳳珠のお見舞いは邪魔だったようですね」



は柚梨に駆け寄って、その包みを受け取った。自分がもらえるものだと思っているところがらしいと苦笑して柚梨が其れを差し出すと、は子供のように顔を綻ばせた。が柚梨に座るように促しながら、外で待っている家人に声をかける。



「お茶のおかわりを頂戴。柚梨の分は私が淹れるわ、それから鳳珠の分も」

「………、何で自分の分は淹れないんです?」

「あら、蜜柑だわ」



呆れたように柚梨が訊くのも無視して、はいそいそと包みを開けた。中からは綺麗な橙をした蜜柑が姿を現し、はぱっと満面の笑顔を浮かべる。幼い頃から変わらない予想通りのその顔に柚梨の顔も自然と崩れる。



は蜜柑が好きでしょう?紅州の蜜柑ですよ」

「ありがとう、柚梨」



二人の会話を聞きながら、鳳珠は其れは自分の見舞いではないのかと思った。しかしは自分で食べる気満々なのか、鳳珠に見せる前に一つ剥き始めている。動くのも体がだるいので黙っていると、の楽しそうな声が聞こえる。



「ね、見て柚梨。上手に出来てるでしょう?」

「本当だ。は相変わらず上手いですね」

「でしょう?鳳珠とお揃いにするの」

「其れは良かったですね」



コンコンと扉を叩く音が唐突に聞こえた。家人のお茶をお持ちしましたという声がその後に続いたので、が澄ました声で招き入れる。家人の青年はてきぱきと黙って奥方様と客人の分、自分の主の分の茶を淹れると軽く頭を下げて室を出て行った。が不満気に口を尖らせながら熱いお茶を啜る。



「私が淹れるって言ったのに」

「………いただきます」



ありがとう好青年。そう思いながら柚梨はあえてに何も言わずにお茶を啜った。がお茶を淹れると泥のような色になるというのは鳳珠から聞いて記憶に新しいし、幼い頃からはお茶を淹れる事すら苦手だった。ほんのりと甘いお茶が喉を潤し、柚梨は眠っているのかいないのか動かない鳳珠をちらりと見やった。



「蜜柑、とっても美味しいわ」

「ちゃんと鳳珠にもあげるんですよ?」

「分かってますぅ」

「それでは、そろそろ失礼しますね」

「え、もう帰るの?」



そういって立ち上がった柚梨にがきょとんとした表情で問うと、柚梨はちらりと鳳珠に視線をやって曖昧に微笑んだ。不満そうに眉を寄せているの頭を優しく撫でてやり、言い聞かせるように言う。



「鳳珠は病気なんですから、長居したら私まで移ってしまうでしょう?」

「………うん、ごめんなさい」



素直に謝ったに一つ笑って、柚梨は室を出て行った。そのやりとりを、鳳珠は眼を閉じて聞いていた。彼が出て行ったのを聞いてしばらくしてから、一人で黙って蜜柑を食べているに声をかける。行き成りの声にが驚いたように鳳珠を見やった。





「起きてたの?」



驚いたを無視して、鳳珠が彼女を手招く。がやや不審に思いながら鳳珠の所に行くと、鳳珠はの手を引っ張った。の口から小さな悲鳴が漏れるがその声は鳳珠の胸に押し当てられてくぐもった音になる。が気付いたときには鳳珠の胸に抱きかかえられていて、は困ったように鳳珠を見上げた。



「鳳珠ぅ?」

「此処にいろと言っただろう」



鳳珠はを抱き上げると寝台に乗せ、しっかり抱きしめて眼を閉じる。は戸惑ったように鳳珠を見ていたが、やがてそっと腕を鳳珠の髪に絡ませた。さらさらと心地よい手触りは汗ですこし湿っていて、は不安そうに鳳珠の顔を覗き込む。



「鳳珠、大丈夫?」

「お前が此処に居れば大丈夫だ」



抱き枕のようにを抱え鳳珠はゆっくりと眼を閉じて、やがて静かな寝息を立て始めた。






-fin-

結局彼女は風邪を移されると思います。
リクエストありがとうございました!
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